[論評&質問]───────────────────────────────────────── 鈴木武敏さん、あなたはメガネ店が検眼することを 認めるのか認めないのか、どちらなのですか ────────────────────────── 日本眼鏡教育研究所 岡本隆博 これまでの経緯 日本眼鏡学会の会誌『眼鏡学ジャーナル』Aug2009に掲載の、 鈴木武敏「累進レンズの処方における調節作用と失明予防の重要性」についての、 私の批判や疑問点を述べ、さらに、筆者である鈴木武敏医師(以後、単に「筆者」と記す)に対する質問も書いてみる。 なお、本稿は当方が主宰する「ユーザー本位の眼鏡処方を推進する会」のネットサイトに掲載し、これを筆者に案内して、 筆者からの回答などを待つことにする。 ○ 筆者の所論の批評に入る前に、筆者の長年の主張の要点を紹介し、これまでの筆者と私との関わりを概説しておく。 筆者の持論は要するに (1)「メガネ店の眼鏡処方は(近視)過矯正が多い」 (2)「メガネ店での検眼には病気の見逃しがあるので、眼科との連携が必要」というものである。 このうちの(2)については、筆者が言う「連携」の具体的な内容は明らかではないが、どうやら、 メガネ店では眼鏡処方はやめてそれは眼科に委ねよ、ということらしい。 これまでに、幾度も筆者は、この主張を筆者はテレビや週刊誌を通じて一般社会にも言ってきたし、 メガネ業界の業界誌を通じて業界にも語った。 その都度私は筆者に対して公開質問をしたが、常に筆者は回答はせずに、 ほとぼりがさめたころにまた同じ趣旨の主張をメディアを変えてなす、ということの繰り返しであった。 その主なところを、以下に並べてみる。 1.1999年に業界紙の月刊『眼鏡』に、筆者の配下の検査員らしき人物(岩手県在住とのこと)が匿名で 「眼鏡業界発展のために」という投稿をして、それが掲載された。 内容は、さきほどの(2)の主張である。 私はすぐさまそれに反論を送り、同誌の次号に掲載されたが、匿名氏からの反論はなかった。 (詳細は日本眼鏡技術研究会雑誌)(以下、単に「会誌」と記す)51号に掲載) 2.2000年11月に筆者は、日本テレビの関東ローカル番組「報道プロジェクト」に出演し、また(2)のことを主張した。 私はそれに対して公開質問をした(月刊『眼鏡』12月号に掲載)が、それに対しても返事はなかった。 (詳細は会誌53号に掲載) 3.月刊『眼鏡』2001年3月号に筆者の配下の視能訓練士、笹原格氏による、(2)の趣旨の投稿が載った。 それは上記の2.における私からの公開質問の文章についての的はずれな揚げ足取りも含めて業界全体への 警告提言として書かれたものであったが、このときには明確に「眼鏡店は、眼鏡を医療として、 眼科での十分な検査による処方箋を持って、眼鏡店に来るべきであると指導するのは、当然ではないか」と 書いてあった。 これに対して私はすぐに月刊『眼鏡』に反論を送って、それは同誌4月号に掲載された。 (詳細は会誌54号に掲載)このときも、笹原氏は、私に対して反論をされなかった。 4.2002年に、業界誌『近代メガネ』10月号と11月号にインタビュー記事として、筆者のいつもの主張が載った。 これに対する私の反論(公開質問を含む)は相当に長かったので、同誌の同年12月号と翌年1月号に掲載された。 そして、それに対しても、また例によって鈴木氏はだんまりであった。(それについては会誌56号に載せた) 5.2003年12月に、鈴木医師の眼科のホームページの内容に、疑問を感じる点がいくつかあったので、 「ユーザー本位の眼鏡処方を推進する会」が、同会のホームページで公開質問をした。 それはいまでもhttp://www.ggm.jp/ugs/q/suzuki.html(同会Hpの「公開質問」の部屋)で見ることが出来るが、 これにもまた返答はなかった。 以上がこれまでの経緯のあらましである。 まず鈴木氏側が何かしかけて、それに対して私が反論反問をしたら、鈴木氏側は黙ってしまう。 そして、ほとぼりがさめたころにまた鈴木氏が何かしかける、ということの繰り返しである。 5回とも、そのパターンである。 ところが、今回は、日本眼鏡学会の副理事長の木方さんによると、同学会の大頭理事長が 鈴木氏にセミナー講師としての講演を依頼し、鈴木氏がそれに応えて学会で話をし、 それを鈴木氏が原稿にしたものをジャーナル誌に載せた、ということらしい。 それなら筆者が刑事告発を ではこれから、今回の鈴木氏の所論の内容を概略紹介かたがた批判し、筆者への質問も書いてみる。 この批判は、これまでに私が書いた筆者の論への批判と重複する部分もあろうが、 それは筆者が私からの質問に対してお答えをなさらなかったがゆえのものであるとご理解をいただければ幸いである。 以下、《 》内は、この所論からの原文のままの引用である。 まず筆者は《はじめに》で《日本では眼鏡店の開設に資格制度がないために、 技術のあるなしに関わらず、誰でも開設することができる》と言い、 《そして、無資格の人が医療行為であるはずの検眼行為を当然のように行っている》と言う。 それなら筆者は、我が国のメガネ店で眼鏡処方のための屈折検査などを行っている人間は 医師法に違反する法治国家において到底許されざる行為をなしており、 しかもそれは国民に対して著しく不利益をもたらしている反社会的な行為であると考えているのであろうか。 もしも筆者が本気でそう思っているのであれば、それを放置しておき、刑事告発をまったくなさない筆者の態度は、 まさに怠慢のそしりを免れないはずである。 なぜ筆者はメガネ屋の検眼行為(←筆者の用語)を許容しているのであろうか。(質問1) なお、私はメガネ屋が行なう検眼は、点眼薬を使うものでもないし、目に直接何かを触れさせるものでもないのであるから、 医師が行わなければ危険というものではないので、過去の判例からして、 医師法17条で禁じられた「非医師の医業」には該当せず、 したがって全国の普通のメガネ店の検査員は医師法に抵触することは全く行なってはいないという主張を以前からしている。 誰がそういう危惧を持つのか 筆者は《眼科医との連携のない眼鏡処方は社会医学的に看過できない問題を含んでおり、 今後、肝炎問題と同様の訴訟に及ぶことが危惧されており》と言うが、誰によって危惧されているのかが不明である。 私はこういう危惧を持っているのは筆者ただ一人ではないかと思うのだが、 筆者の他に誰か危惧しているの人がいるのであれば、 それは誰であるかということを是非教えていただきたいものである。(質問2) それと筆者は、筆者の医院における眼鏡処方の過程を示し、 《おそらくこれだけの装置を使いながらの検眼手順をルーチンに行っている施設はほとんどないであろう》 と自画自賛しているが、私にはやや疑問を感じる点がある。 それは何かというと、《自覚的屈折検査》としてあるのだが、 眼鏡処方にとって必須である「両眼開放屈折検査」がなされているのかどうかがわからないということである。 『眼科臨床医報』(50;367,1956)の原田政美・内田幸男の「両眼視による眼鏡矯正」では、 「両眼融像視で屈折検査を行うと、遠視眼においてアトロピン点眼に匹敵する程度の調節の緩解が得られる」としてある。 そして、評者自身も、日常の業務において両眼開放屈折検査を行なうことにより、遠視の潜伏や近視過矯正の眼を よく見つけている。単に「自覚的屈折検査」としか書いていない筆者は、眼鏡処方の場合にまだ「正しい両眼開放屈折検査」を 実行していないのかもしれないので、もしそうであれば、早急にすべての眼鏡処方のための検査において、 両眼開放屈折検査を実行してもらいたいものである。 そして筆者は、 《この眼鏡処方過程の中に二色テストの記載がないが、このテストは思っている以上に調節の影響を受けやすい検査であって、 行なっていけないわけではないが、過矯正の最終確認としては使用できない検査という評価をしているからである》 と述べている。 この文章の中の「過矯正の最終確認」というのは正確さを欠く表現であり、 ここは「近視過矯正(遠視低矯正)の最終確認」とすべきである。 専門的な内容の所論においては専門用語を正確に書いてほしい。 ましてや、この筆者の論が掲載されているのは「日本眼鏡学会」の機関誌なのであるから。 そして、ここで筆者が書いた「調節の影響を受けやすい検査」という表現も、 これだけでは十分な説明になっていないので、私が代わりに説明しよう。 二色テストにおいて「R>G」の答えを得たとしても、それによって「これは近視過矯正(あるいは、遠視低矯正)の 矯正状態ではない」と判断するのは必ずしも正しいとは言えない、ということを筆者は言いたいのであろう。 それは確かにその通りである。たとえば、−1.00Dの近視の眼が−1.50Dで矯正をされていたとして、1D分調節をすれば、 R>Gに見えるのであるから、人間の眼は調節をするものだということからして、二色テストでたとえR>Gになったとしても、 それをもって近視過矯正(遠視低矯正)にはなっていないと判断してはいけない、ということなのである。 それはその通りなのであるが、逆に「R<G」ならば、これは調節の介入のあるなしにかかわらず、 近視の過矯正か遠視の低矯正(裸眼ならば遠視)と見なしてよいわけである。 だから、これについての筆者の記述ははなはだ不十分なものだと言わざるをえないのである。 それと、もともと2色テストは、屈折検査の途中で球面度の矯正具合の目安として利用するものであり、 それでもってR=Gの度数を探してその度数でもってその眼の完全矯正度数とするという使い方をすべきものではない。 完全矯正度数としての球面値は、あくまでも「最高視力を得るもっともプラス寄りの度数」なのだから。 だから、二色テストを完全矯正度数を決定するための《最終確認としては使用できない》のは、 いわば自明のことなのであるが、ただし、ある度数で2色テストを見せたらR<Gだったというのであれば、 それは近視過矯正または遠視低矯正の状態での見え方だと言えるのである。 違法行為ならなぜ咎めないでその実行に協力するのか 次に筆者は《5.フレーム調整の技術の重要性》のところで、自院の処方箋で作製した累進眼鏡で、 見え具合のクレームを眼科に持って来られて、それを枠の調整で解決するという例を出したあとで、 《認定眼鏡士を売りにしている眼鏡店のフレーム調整はどうであろうか》と言って、 覆面モニターで行なった4店の累進メガネの作製結果を示しているが、 そこに書かれているのは検眼や処方の結果と、アイポイントを取ったかどうかということである。 これはどう考えても「フレーム調整」という範疇に入る作業ではない。専門的なことを書くのならば、 用語をもと正確に書いてほしい。 その項で筆者は累進眼鏡の作製がまずい店が多いということを言い、 《検眼の問題はとりあえず抜きにして、今後、現存する眼鏡店の調整技術をどのように上げていくかが重要な課題であろう。》 とする。「とりあえず抜き」というのは一体どういうことなのかがわからない。 メガネ店では検眼や眼鏡処方はしないことにして、しかし眼科ではメガネの作製はできないから メガネ店では調整(調製?)技術を磨くべし……ということなのか、 あるいは、メガネ店で累進メガネの検眼もしてもよいけれど、 調整も上手になりなさい……ということなのか。それがわからない。 そこをはっきりさせたくないので、こういうふうにぼかしてあるのだろう。 筆者はどちらの主張をしておられるのかを私は知りたい。(質問3) ここで筆者は、近隣の4店の眼鏡店の技術を見るために、覆面で筆者の配下のスタッフが 検眼をしてもらった上で累進眼鏡を作ってみたという報告をしている。 筆者自身もその覆面モニター氏に同行したのかどうかは、この記述では定かではないが、 伝聞ではなく自分が実際に見たかのように、たとえば、 《作製前にアイポイントをとったのは認定眼鏡士SSの一店舗のみで簡単な前調整はあったものの、その他の店では 前調製もまったくなかった》などと書いてあることからして、おそらく筆者は配下と一緒に4つの店を訪れたのであろう。 もしそうでなければ、これは伝聞であることを示す文章で書くべきだからである。 とすると、筆者は、自身が「この検眼は医師法違反だ」と思っている行為を目の前にして、そのことを指摘もせずに、 自分の部下をその違法な行為の実行の受け手とさせ、その技術の善し悪しを見て、 それを見聞記として発表した人物であるということになる。 たとえて言えば、競馬での勝負をよくやる人物で「競馬は合法のギャンブルだが、金をかけるマージャンは違法だ」 という主張を持つ人物が、マージャン屋へ行って、自分の部下にマージャンをさせて金のやりとりを目撃しながらも それを咎めずに、「あいつは上手だったので、ずいぶん儲けたが、あいつはヘタだったので、ずいぶん金を払っていた」 というような見聞記を公表した、というようなものであり、その筆者に対して私は「自分が違法だと思っているのなら、 その場で注意をしないといけないのでは?」と言いたい。 私は鈴木氏に対しては「メガネ店が検眼すること、それ自体を、あなたは否定するのか、 容認するのか、どっちなのですか」と問いたい。(質問4) 否定するのなら、そんな検査を受けに行くのがおかしいし、容認するのなら、 違法性ウンヌンなどと脅し文句のようなことは書くのはやめるべきだと思う。 そして、そのあとで筆者は 《累進眼鏡の作製は何らかの形で認定された眼鏡店だけに規制することも考慮する必要があるのではないか》と言う。 これは「累進以外なら規制は不要だが、累進にはそれがあってほしい」という主張だと解釈するのが自然だと思うが、 そういう主張だとすると、こういう非現実的な提言を言うのは勝手であるが、これをマトモに取り上げて検討する人は、 いまの我が国に一人もいないであろう。 笑止、と言う他はない。 では筆者に問おう。単焦点は除外して累進の作製だけを規制する方法というものがもしあり得るのならば、 具体的に言ってみていただきたい。(質問5) そんな法律、どこの国にもない。日本だけでそんな法律を作るのか。 えっ?法律でなくとも、規制はできるのではないか、だって? それも笑止。 無責任商法であるメガネ通販でさえ、違法性がないからどうにもできないという状況であるのに、 累進メガネの処方だけを法律でなく(たとえば行政指導で)どうやって規制をかけるのか。 それと、この件に関してもう一つ言っておくと、筆者はモニターした近隣各店の技術の低さを批判し嘆いているが、 それならせめて「フレーム調整技術(←筆者の用語)」だけでも筆者か筆者の配下の人が「指導」を してやればよいのではないかと思う。 その方が筆者の近隣の地域の人のためになることは明白だからである。 筆者は眼科医として全国のメガネ技術者に対して警告を発する意図で今回の所論を書かれたのだと思うが、 足下の近隣のメガネ店を具体的に技術指導しようというお気持ちはないのであろうか。 なぜ、それをされないのであろうか。(質問6) なぜ訴訟を勧めないのか 次に筆者は、急性の緑内障の80歳の女性でカスミ眼で眼鏡店の検眼を受けたが、どんどん症状が悪化し、 筆者の診察を受けた時点では左眼が失明状態だったという例を出している。 (そのメガネ店の検眼によりメガネを作ったかどうかは書いていないが、 メガネを買ったとは書いていないので、おそらく作っていないのだろう) そして、メガネ店の検眼の時点で眼科への紹介があればレーザー手術で失明は防げたとし、 《このような症例では今後、訴訟が起きる可能性があることは言うまでもない》と言う。 これについても私は大いに疑問である。 きょう日、どんなことでも、患者が不満を持てば医療機関は訴訟を起こされる可能性がある。 なぜなら、医療機関には国家資格でその能力が保証された医師がいるからである。 しかし、筆者が冒頭で述べたように、メガネ屋には法的な資格を持った者はいない。 なのに、メガネ屋が病気見逃しで訴訟をされる……? そんなことが実際にあり得ようか。 国家資格を持った薬剤師が、たとえば頭痛薬を買いにきた人に、医師への受診をすすめずに単に薬を売って、 それであとで医療機関での診察によりすぐに治療のいる頭痛だったと判明して手遅れになった、 ということがあったとして、その薬剤師は法的に責任を負わされるだろうか。 そんなことはあり得ない。そんな話は聞いたことがない。 薬剤師は薬を調合したり販売したりするのがその職務であって、病気の診察をする人間ではない。 それを望むのなら医師に診てもらうべきだ。それは世の中の常識である。 眼鏡技術者は、眼の光学的な測定や、メガネの作製をする。 眼鏡屋で眼を測ってもらっても、いまひとつ見えにくいのであれば、 メガネだけでは解決しない何かが有るのだろうかと思って医師に受診をする。 もちろん、メガネですむことかどうかを初めから眼科で診てもらってもよい。 それも我が国の国民の常識である。 責任をもって治療の必要な目を判別して医師のもとへ患者を送り込む法的な義務を持つのは、 アメリカやイギリスの公的な資格を持つオプトメトリストなのであって、我が国のメガネ屋に、 そういう法的義務はないことはあきらかである。 もし、我が国のメガネ屋にそういう法的義務と、それを行う能力や設備がそなわっているのであれば、 国民はみな自分に目の病気の疑いがあっても眼科へ行かずとも、メガネ屋へ行けばよいことになるが、 そんな話は少なくとも日本では聞いたことがない。 もしも我が国でメガネ屋が眼科受診をすすめるべき人に対して勧めなくてあとでどうこうということで、 法的な責任を問われるのであれば、これはもはやメガネ屋へ来る人全員に対して検眼はせずに眼科へ送る ということしかなくなる。なぜなら筆者がここでもその例を書いているように、メガネ屋で検眼して視力が出るから、 測定者がおかしいとは感じない例もあるのだから。 筆者はメガネ屋がみなそういうふに路線転換をすることを狙って、《今後、訴訟が起きる可能性》と書いたのであろうが、 この「訴訟ウンヌン」は、私にはヘタな脅迫文のようにしか感じられない。 道義的責任はどうか それでは、法的責任ではなく道義的な責任はどうであろう。 もちろん、普通のメガネ屋ならば、自分の職業道徳上の特性からして、何かおかしいなと感じたら 医師への受診を勧めるはずである。 しかし、そういう道義的な責任は、それを感じなければならない人間に対して他人が説諭することはできても、 強制的にどうこうとすることはできない。本人の自覚を待つより方法がないのである。 それが法的ならぬ道義的責任なるものの本質なのである。 これに関する国民の常識は「親切な、あるいは優秀なメガネ屋なら何か疑問を感じたら 眼科受診をすすめることもあるけれど、 メガネ屋は医師ではないし、病気の検査設備があるわけでもないから、詳しいことまではわからない」 というものだと思う。 そして、たまに、筆者が今回紹介したような不運な人もいるだろうが、そのメガネ屋が「私は病気のことも分かります。 あなたは眼科へ行く必要はありまあせん」と明言でもしたのならともかく、そうでなければ、 「メガネ屋が医師への受診を勧めてくれなかったから私はこのようになってしまった」ということで メガネ屋を恨んで裁判所へ訴えるというような常識はずれの人が居るとは私には到底思えない。 しかしもし、筆者が「いや、それは常識はずれではないし、そのメガネ屋に対して法的責任を問うべきだ。 それがタチの悪いレベルの低いメガネ屋をなくす最前の方法だ」と言うのなら、その患者さんに、 損害賠償の訴訟を起こすように勧めてみるか、あるいは、その眼鏡屋を「検眼」をしたかどで、 医師法違反で刑事告訴をしてみたらどうだろう。(質問7) それをせずに、単に《今後、訴訟を起こす可能性》などと書くだけでは、私などは、 例によってまたいつものオドシ文句か、と思うだけである。 求められるままに薬を売って医療機関への受診を勧めなかったということで訴えられた薬剤師という話を 私は聞いたことがない。(あとで念のために私の知り合いの薬剤師Aさんにそのことについて尋ねてみたら、 そういう訴訟はこれまで一件もないそうだ) 肥満体を何とかしたいがためにエステへ行って、そこで身長や体重や体脂肪率を測ってもらって、 エステティシャンに作ってもらった痩せるための運動や食事のメニューを実行しても効果が出ないので、 医師に診断をうけたら、医療機関による治療を要する病気からくる肥満だと分かって、 あのときになんで医師への受診を勧めてくれなかったのかと、エステを訴えた、という話も聞いたことがない。 (エステが訴えられるのは、たいていは、そのボッタクリ商法がらみである) しかし、世の中いろんな裁判官もいるだろうから、医師への受診をすすめなかったからと言ってメガネ屋を訴えて、 負けるとは限らないのかもしれないので、筆者にはぜひその試みをお勧めしたいと思う。 もっとも、裁判に入る前に起訴されるかどうかということもかなり疑わしいと私は思うのだが、 それで不起訴になれば、メガネ屋の病気見逃しは無罪という検察(司法行政官)による答が出るでるわけである。 終わりに、もう一つ筆者に尋ねておこう。 日本広しといえども、メガネ店は検眼をやめてすべて眼科に任せなさい、と大きな声で言う眼科医は、 私は筆者しか知らない。 なぜ筆者しかそれを言わないのか。その理由をおたずねしたい。(質問8) |
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